高浜焼の作品歴史

初代の作品【1762~1798年】

 上田家第六代上田傳五衛門武弼時代の作品です。  宝暦十二年(1762年)皿山に窯を始めました。初め肥前大村領長与の陶工を雇って陶窯を開いたのです。当初は失費多端、多大の経費をかけてもその効果は少なかったのですが、事業を継続しついに鷹の巣山地区に数百人の生業となすに至りました。
 染付錦手焼でオランダ人と交易したのはこの時代のものです。皿、鉢、花瓶、酒器等の錦手を焼いています。皿類はスープ皿の形をなし大きさは12寸、8寸、6寸のものが残っています。
 上絵は鉄による赤、銅による青緑色、マンガンによる紫色、及び一部泥金を使用しています。その色の調子がかなり厚く絵付されているあたりは、全く九谷焼製品に似ている古伊万里風の壺もあります。

 

昭和50年 熊本県指定 有形文化財指定

 

第二期の作品【1789~1818年】

  第七代上田源太夫宜珍翁時代の作品で、平戸三河内より陶工を招いて自身平戸に伝習に行き、大いに工夫・研究するところがありました。その作品は、前期に比して一層の進歩をなす三河内系統を多分に加味している高浜焼としては、最も精彩を放った出来栄えでした。「清玩」の銘があり染付をもって、細密なる山水や人物を描き、食器茶器その他の細工物等を作りました。呉須の火度に至っては、三河内焼とほとんど同一ですが、その格好・図柄は三河内焼よりやや見劣りがありました。
 作品は三河内焼即ち平戸風のものが多くあります。平戸焼風の彫刻のある錦手の茶碗、染付の大皿、鉢類、徳利等、多数残っています。「清玩」の銘があり、三河内焼系統のものが多く、細密なる山水や人物を描いた食器・茶碗類が多く残っています。

 

第三期の作品【1823~1861年】

 第十代上田源太夫定行の時代の作品で、肥前の亀山より陶工を招いて焼いたものです。亀山焼とほとんど同様の作品となります。
 釉面の大なる貫入、呉須の鮮やかにして濁りがなく冴えたる色で、繊細なる下絵を描いたもの等は逸品と称されます。「東肥天草」と銘を付したものが多くあります。
 亀山焼は文化元(1804)年に長崎奉行の勧めにより始まったもので、その絵付けなどは有名な絵師によって描かれているので、亀山焼は日本の磁器の中で最も精巧なる染付を行っています。
 この頃の高浜焼は亀山焼を模倣せしめたため、中にはほとんど見分けがつきにくい作品があります。強いて両者の相違を比べれば、釉薬がかなり異なっており、したがって呉須の色も多少相違を生じたと思われます。高浜焼の愛好者の中で最も喜ばれるのはこの部類のものです。「東肥天草」の銘が書かれ、亀山焼とほとんど同様の作品であり、精巧な染付を行っています。

 

明治時代【1869~1889年】

 十一代上田定珍~第十二代上田松彦時代の作品です。
 明治2(1869)年上田源太夫定珍が再び高浜焼を始めその後一盛一衰があったが明治22(1889)年頃まで焼いています。その後、皿山地区の赤崎傳三郎、柳本松三郎、野口鶴一等が窯を借りて、明治32(1899)年まで継続しました。
 明治時代の製品は、安価な製品を大量に生産したようで、品物の気品が非常に落ち、唐呉須の代用として酸化コバルトが使用され、青色が著しく派手になりました。

 

現在の作品【1951年~】

 明治中期に一度途絶えましたが、昭和27年に復興して以来、その火を絶やすことなく発展、守り続けられています。その間、陶土工場の新設、昭和63年には焼物工場の改築を行い、陶石の採掘・製土から焼物の生産までの体制を整え、現在に至っています。
 最上級の天草陶石を使用し、どこまでも白く、薄く、透明感のある磁器を目指して日常食器を中心に生産しています。また、江戸時代中期の高浜焼の復刻、ユニバーサルデザインの食器の開発など、現在の生活様式に調和した製品の開発に日々研究を重ねています。

ユニバーサルデザインの「ホットフィット」は、第107回九州山口陶磁展 産業陶磁器部門で佐賀新聞社賞を受賞しています。

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