天草「高浜焼」とは

 熊本県の天草下島では17世紀に発見された「天草陶石」が採掘されます。江戸時代に平賀源内によって「天下無双の土」と絶賛されたこの陶石は、現在でも国内最高品質の白磁原料として知られ、有田や瀬戸などの高級磁器の原料として利用されています。

 白く透明感があり硬質な天草陶石はこのように多くの磁器原料として有名なだけではなく、古くから高浜の上田家代々によって「高浜焼」として独特な磁器文化を生み出してきました。

天草陶石とは

 天草陶石は、高浜焼だけでなく、佐賀の「伊万里焼」や「有田焼」の原料としても供給されています。
 「天草陶石」鉱床は熊本県天草下島西部に分布し、海岸線に沿って海岸脈と村山脈、それらの東方の皿山脈から成っています。総延長は南北約13kmに及び、海岸脈と村山脈は脈幅3~4mから8~10m、最大幅は約15m、延長距離は約1.2kmから4kmでほとんど直立しています。皿山脈の脈幅は膨縮に富み8~15m最大幅25m、脈の総延長は約7kmです。
 これらの陶石脈は、上部白亜紀層及び古第三紀層中に貫入した流紋岩(石英祖面岩)岩脈が、熱水変質作用により陶石化したものと考えられています。陶石試料によるK-Ar法による年代測定によると、年代は中新世中期(1500万年前)で、これは陶石の生成の時期を示すと考えられています。

特徴

  • 単味で磁器が作れる。
  • 鉄およびチタン含有量が低く、高級白磁原料となる。
  • 粉砕が比較的容易にできる。
  • 岩石・ケイ酸質でありながら可塑性があり、成形性も良好。
  • 若干の鉄分含有により、洋食器に白く、和食器用に適度な青みがつけられる。
  • 強度が高く、硬い製品ができる。
  • チタンの含有量が少ないので、還元焼成した場合「くすみ」がでない。
  • 焼成温度を上げずに透光性が出せる。
  • 耐火度が磁器はい土に近いので、調合に幅がとれる。

陶石の種類

特等石

特等石
鉄分含有量が最も低く、良質な高級白磁原料となります。

2等石

1等石
鉄分含有量が低く、良質な高級白磁原料となります。
3等石

2等石
鉄分含有量が低く、主に陶磁器やガイシとして使用されます。

4等石

3等石

鉄分含有量が多く、主に陶磁器やタイルなどに使用されます。

変色陶石

4等石

鉄分含有量が多く、主に陶磁器やタイルなどに使用されます。



天草陶石の採掘の流れ

  1. 掘削・粉砕
    発破・重機等で採掘します。
    掘削・粉砕
  2. 選鉱場へ運搬・集積
    採掘した陶石は、選鉱場へ運ばれます。
    選鉱場へ運搬・集積
  3. 洗浄・品位別の選鉱
    洗浄しながら人の手により選鉱されます。
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  4. 品位別の選鉱
    人の手により選鉱されます。
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  5. 出荷
    品位別に出荷されます。
    出荷

塩素脱鉄処理

 鉄分の多い下級陶石を、塩酸脱鉄処理をすることにより、高付加価値化と良質な陶石資源の温存に役立てています。これにより、肥前地域をはじめとした陶磁器産地に対して、高品位で低コストの原料を提供しています。
 また、1970年の生産開始から40年後の今日まで基本的な生産プロセスは変わっておらず、安定で経済的な生産技術として評価されています。


天草陶石と上田家の歴史

 天草陶石が発見されたのは、かなり古く元禄年間に旧高浜村皿山及び旧下津深江村で採掘されていたと伝えられていますが、定かではありません。正徳2(1712)年頃、肥前の製陶業者に天草陶石を供給したのが、製陶原料として使用した始めとされています。明和8(1771)年には平賀源内が長崎奉行に提出した『陶器工夫書』で「天下無双の上品」と賞賛しました。


高浜焼の元祖
 

 上田家代々の累記を見ると、高浜村上田家の祖、第3代伝右衛門が享保13(1728)年に採掘し享保15年に中止しています。その後第5代勘右衛門達賢が宝暦4(1754)年に採掘を再開しており、当時は砥石または硯石として出荷されていました。第6代目伝五右衛門武弼は、天草陶石が陶磁器原料として最も優良であること聞き、肥前長与の陶工山道喜右衛門を招き、宝暦12(1762)年に高浜村鷹の巣山で焼物を焼き始めました。これが高浜焼の元祖とわれています。

新しい産業へ

 元来、天草はいたるところの山岳が起伏して平野に乏しく、田畑が少なかったため、村民は農耕をすることにも非常に困難でした。伝五右衛門武弼は深くこれを憂い、土地の民に新しい産業を与えようと種々研究し、陶石を利用することを考え、多大の経費をかけましたが利益は出ませんでした。そこでしばしば陶業を止めようとしましたが、土地の民が失業し、生活が困窮することを考えるとどうしても廃業できませんでした。欠損を省みずに事業を継続して、ついに鷹の巣山一郷数百人の生業とすることができたのです。


上田家と陶業 


陶業確立の由来

 上田家代々の中の傑出者の一人、第7代上田源太夫宜珍は、父伝五右衛門武弼より陶業を受継ぎましたが、その経営は困難を極めていました。しかし、この盛衰は高浜村民の死活問題であり、村民に生活の糧を与えようとするものでした。年寄りや幼い者も絵薬を摺り、絵を描き、縄を編むなどの仕事をし、農民も農閑期には燃料の松を伐採し、陶石を採掘し、生計を立てることができました。陶業の経営は厳しいながらも、高浜村および近辺の村民を本当に救う慈恵の事業を継続し経営に当たろうと決心した由来です。

 

陶業の繁栄と高浜焼の最盛期

 宜珍は、家財を投げ打つことが多いにも拘らず、励みに励んで苦心惨たんし、高浜村や近辺の村民の生活を支える島の産業としたいと図ったのです。その努力が実り皿山鷹の巣山地区に数百人が生業を成し、染付錦手(赤・青緑・紫・金)も焼かれるようになりました。安永6(1777)年には、長崎奉行柘植長門守の勧めにより、五島に居留していたオランダ人と貿易をしていました。この頃、瀬戸の磁祖である加藤民吉に錦手の秘法を伝授しています。その後、平戸三河内や肥前の亀山より陶工を招き、細密な山水や人物など精巧な染付の作品が焼かれました。こうして国内向けの焼物の製造に力を入れ、高浜焼の最盛期を迎えることとなりました。その後、明治中期まで受け継がれ、昭和27年に再興され現在まで焼き継がれています。

上田家と天草陶石

 天草陶石の採掘は代々上田家の事業として、江戸〜明治中期を経てその間陶石脈の探査開発を行い、明治45(1912)年高浜皿山に馬車軌道並びに自転巻軌道を施設し、本格的な量産体制に入りました。大正11(1922)年3月に合資会社上田商店を創始したその後、合名会社上田商店と改称し、昭和23(1948)年5月さらに組織を変更して上田陶石合資会社としました。

屋敷について...

屋敷の歴史について...


上田家のあゆみ


万治1(1658)年 第2代勘右衛門定正第一代高浜村庄屋を命じられる。
正徳2(1712)年頃 佐賀県嬉野市吉田の製陶業者に天草陶石を供給。
宝暦4(1754)年 第5代勘右門達賢砥石山の採掘を始める。
宝暦12(1762)年 第6代伝右門武弼高浜皿山(鷹の巣)で焼物を始める。
明和8(1771)年 平賀源内「陶器工夫書」の中で天草陶石を称賛する。
安永7(1778)年 長崎出島で高浜焼の販売を始める。
文化4(1804)年 第7代源太夫宜珍瀬戸の陶工加藤民吉に高浜焼の技法を授ける。
文化7(1807)年 伊能忠敬一行天草測量を開始する。第7代源太夫宜珍世話役を任される。
文化12(1815)年 上田家庄屋屋敷建築。
明治22(1889)年 第12代上田松彦陶窯経営を断念し陶石採掘に専念する。
大正1(1912)年 陶石運搬馬車軌道・索道開通。
大正11(1922)年 3月、合資会社 上田商店を創始。
昭和23(1948)年 5月、上田陶石合資会社と改称。
昭和27(1952)年 高浜焼を再開する。
昭和47(1972)年 8月、天草陶石中の鉄分を塩酸を用いて脱鉄する脱鉄工場を新設し、その後昭和53年9月、57年4月に増設。
昭和53(1978)年 1月、陶土工場を新設し昭和59年5月に増設。
昭和63(1988)年 1月、焼物工場を改築。
平成7(1995)年 10月、展示即売所完成。
平成9(1997)年 10月、上田資料館完成。
令和5(2923)年 9月、株式会社 上田陶石へ

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