屋敷の歴史
上田家は東信濃の時代は滋野と称していました。大阪冬、夏の陣で大阪城落城後、我が高浜の地に隠栖しました。
天領天草の代官、鈴木伊兵衛重辰(しげとき)は、万治元(1658)年8月に上田家第二代勘右衛門定正に庄屋を命じました。これが庄屋上田家の祖であり、その後代々庄屋を幕末まで受け継がれることとなりました。現在は15代当主上田萬壽夫社長へと受け継がれています。


この建物は、7代目当主上田源太夫宜珍(よしうず)の時代、文化12(1815)年に建築されたものです。
約1,000坪の土地に南向きに建てられ、大広間(十七畳)、中ノ間(十二畳)、居間(十二畳)表座敷(十二畳)、奥座敷(八畳)裏座敷(九畳)、離座敷(十二畳)など、約百畳の広さと部屋数は約二十室にもおよんでいます。 天井は非常に高く、二間半(4.5m)ほどの高さがあります。家の材料は、シイ、マツ、などの雑木を使用してがっしりと構築され、海からの強い西風や台風にもビクともせず、長年の風雪に耐えて来ました。
昭和7年8月、与謝野鉄幹・晶子夫妻が天草を訪れた際には離れの客房に宿泊しました。そのとき晶子がお礼を込めて書き贈った直筆の歌が残ります。