熊本県の天草下島では17世紀に発見された「天草陶石」が採掘されます。江戸時代に平賀源内によって「天下無双の土」と絶賛されたこの陶石は、現在でも国内最高品質の白磁原料として知られ、有田や瀬戸などの高級磁器の原料として利用されています。
白く透明感があり硬質な天草陶石はこのように多くの磁器原料として有名なだけではなく、古くから高浜の上田家代々によって「高浜焼」として独特な磁器文化を生み出してきました。
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天草陶石が発見されたのは、かなり古く元禄年間に旧高浜村皿山及び旧下津深江村で採掘されていたと伝えられていますが、定かではありません。
正徳2(1712)年頃、肥前の製陶業者に天草陶石を供給したのが、製陶原料として使用した始めとされています。
明和8(1771)年には平賀源内が長崎奉行に提出した『陶器工夫書』で「天下無双の上品」と賞賛しました。
高浜焼の元祖
上田家代々の累記を見ると、高浜村上田家の祖、第3代伝右衛門が享保13(1728)年に採掘し享保15年に中止しています。
その後第5代勘右衛門達賢が宝暦4(1754)年に採掘を再開しており、当時は砥石または硯石として出荷されていました。
第6代目伝五右衛門武弼は、天草陶石が陶磁器原料として最も優良であること聞き、肥前長与の陶工山道喜右衛門を招き、宝暦12(1762)年に高浜村鷹の巣山で焼物を焼き始めました。これが高浜焼の元祖とわれています。
新しい産業へ
元来、天草はいたるところの山岳が起伏して平野に乏しく、田畑が少なかったため、村民は農耕をすることにも非常に困難でした。伝五右衛門武弼は深くこれを憂い、土地の民に新しい産業を与えようと種々研究し、陶石を利用することを考え、多大の経費をかけましたが利益は出ませんでした。
そこでしばしば陶業を止めようとしましたが、土地の民が失業し、生活が困窮することを考えるとどうしても廃業できませんでした。
欠損を省みずに事業を継続して、ついに鷹の巣山一郷数百人の生業とすることができたのです。
陶業確立の由来
上田家代々の中の傑出者の一人、第7代上田源太夫宜珍は、父伝五右衛門武弼より陶業を受継ぎましたが、その経営は困難を極めていました。しかし、この盛衰は高浜村民の死活問題であり、村民に生活の糧を与えようとするものでした。年寄りや幼い者も絵薬を摺り、絵を描き、縄を編むなどの仕事をし、農民も農閑期には燃料の松を伐採し、陶石を採掘し、生計を立てることができました。陶業の経営は厳しいながらも、高浜村および近辺の村民を本当に救う慈恵の事業を継続し経営に当たろうと決心した由来です。
陶業の繁栄と高浜焼の最盛期
宜珍は、家財を投げ打つことが多いにも拘らず、励みに励んで苦心惨たんし、高浜村や近辺の村民の生活を支える島の産業としたいと図ったのです。その努力が実り皿山鷹の巣山地区に数百人が生業を成し、染付錦手(赤・青緑・紫・金)も焼かれるようになりました。
安永6(1777)年には、長崎奉行柘植長門守の勧めにより、五島に居留していたオランダ人と貿易をしていました。この頃、瀬戸の磁祖である加藤民吉に錦手の秘法を伝授しています。
その後、平戸三河内や肥前の亀山より陶工を招き、細密な山水や人物など精巧な染付の作品が焼かれました。こうして国内向けの焼物の製造に力を入れ、高浜焼の最盛期を迎えることとなりました。
その後、明治中期まで受け継がれ、昭和27年に再興され現在まで焼き継がれています。
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初代の作品 1762~1798年
十一代上田定珍~第十二代上田松彦時代の作品です。
明治2(1869)年上田源太夫定珍が再び高浜焼を始めその後一盛一衰があったが明治22(1889)年頃まで焼いています。その後、皿山地区の赤崎傳三郎、柳本松三郎、野口鶴一等が窯を借りて、明治32(1899)年まで継続しました。
明治時代の製品は、安価な製品を大量に生産したようで、品物の気品が非常に落ち、唐呉須の代用として酸化コバルトが使用され、青色が著しく派手になりました。
昭和50年 熊本県指定 有形文化財指定
第二期の作品 1789~1818年
第七代上田源太夫宜珍翁時代の作品で、平戸三河内より陶工を招いて自身平戸に伝習に行き、大いに工夫・研究するところがありました。その作品は、前期に比して一層の進歩をなす三河内系統を多分に加味している高浜焼としては、最も精彩を放った出来栄えでした。「清玩」の銘があり染付をもって、細密なる山水や人物を描き、食器茶器その他の細工物等を作りました。呉須の火度に至っては、三河内焼とほとんど同一ですが、その格好・図柄は三河内焼よりやや見劣りがありました。
作品は三河内焼即ち平戸風のものが多くあります。平戸焼風の彫刻のある錦手の茶碗、染付の大皿、鉢類、徳利等、多数残っています。「清玩」の銘があり、三河内焼系統のものが多く、細密なる山水や人物を描いた食器・茶碗類が多く残っています。
第三期の作品 1823~1861年
第十代上田源太夫定行の時代の作品で、肥前の亀山より陶工を招いて焼いたものです。亀山焼とほとんど同様の作品となります。
釉面の大なる貫入、呉須の鮮やかにして濁りがなく冴えたる色で、繊細なる下絵を描いたもの等は逸品と称されます「東肥天草」と銘を付したものが多くあります。
亀山焼は文化元(1804)年に長崎奉行の勧めにより始まったもので、その絵付けなどは有名な絵師によって描かれているので、亀山焼は日本の磁器の中で最も精巧なる染付を行っています。
この頃の高浜焼は亀山焼を模倣せしめたため、中にはほとんど見分けがつきにくい作品があります。強いて両者の相違を比べれば、釉薬がかなり異なっており、したがって呉須の色も多少相違を生じたと思われます。高浜焼の愛好者の中で最も喜ばれるのはこの部類のものです。「東肥天草」の銘が書かれ、亀山焼とほとんど同様の作品であり、精巧な染付を行っています。
明治時代 1869~1889年
十一代上田定珍~第十二代上田松彦時代の作品です。
明治2(1869)年上田源太夫定珍が再び高浜焼を始めその後一盛一衰があったが明治22(1889)年頃まで焼いています。その後、皿山地区の赤崎傳三郎、柳本松三郎、野口鶴一等が窯を借りて、明治32(1899)年まで継続しました。
明治時代の製品は、安価な製品を大量に生産したようで、品物の気品が非常に落ち、唐呉須の代用として酸化コバルトが使用され、青色が著しく派手になりました。
現在の作品 1951年~
明治中期に一度途絶えましたが、昭和27年に復興して以来、その火を絶やすことなく発展、守り続けられています。その間、陶土工場の新設、昭和63年には焼物工場の改築を行い、陶石の採掘・製土から焼物の生産までの体制を整え、現在に至っています。
最上級の天草陶石を使用し、どこまでも白く、薄く、透明感のある磁器を目指して日常食器を中心に生産しています。また、江戸時代中期の高浜焼の復刻、ユニバーサルデザインの食器の開発など、現在の生活様式に調和した製品の開発に日々研究を重ねています。
ユニバーサルデザインの「ホットフィット」は、第107回九州山口陶磁展 産業陶磁器部門で佐賀新聞社賞を受賞しています。